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2011年7月10日 (日)

井上ひさし著「この人から受け継ぐもの」から、知られざる驚嘆の「宮沢賢治の一生」を知る!=第一弾=

 井上ひさしの「この人から受け継ぐもの」を読んだ。

Konohito

「この人」とは、
「憲法は政府への命令」の吉野作造、
「ユートピアを求めて」の宮沢賢治、
「戦争責任ということ」の丸山真男、
「笑劇・喜劇という方法」でのチェーホフ、
「笑いについて」では、
イギリスの風刺作家ジョン・ウェルズなどである。

 さて、この作家・劇作家「井上ひさし」は、
山形県川西町の出身で、
1987年(昭和62年)に、氏から
蔵書7万冊を寄贈され「遅筆堂文庫」は開設された。

Chihitsudo01
http://www.plaza-books.jp/pc/chihitsudo.html

1994年には、遅筆堂文庫を核に、
劇場と川西町立図書館を併設した
複合文化施設「川西町フレンドリープラザ」が完成。

この「ユートピアを求めて-宮沢賢治」は、
1989年5月3日、第2回遅筆堂文庫・生活者大学校の
宮沢賢治・農民ユートピア講座の講演として
校長 井上ひさしが「なぜいま宮沢賢治か」と
いう演題で語ったものをベースにしている。

 今回は、宮沢賢治の話を読んでいて、
「天才は、躁うつ病患者だった!」
というあまりにも衝撃的で、面白かったので
簡単に気になるところを紹介したい。

ちょっと、長いのでお許しを。

Kenji

宮澤賢治は、一生の中で4回ほど、
精神的に非常に不安定な時期があった。
その一回目は、17歳の頃で、
非常なうつ状態に入る。

 中学の卒業時期で、花巻の父に
家業の古着屋を継げと言われ、本能的に
それに抵抗した形が現れたようだ。

その時歌った短歌が、
「うしろよりにらむものあり 
 うしろよりわれらをにらむ
 青きものあり」
精神分析でいう「被注察感」が出ていた。

父親に必死に上級学校に行って
勉強したいと哀願し、盛岡高等農林科
(現岩手大学農学部)に進学。

そして、卒業間近になって、
優秀なので学校に指導助手として残れと言われ、
父親からは
「お前の言うこと聞いて上の学校に行かせた
 のだから、もう帰ってきて家業を継げ」
と言われる。

そうすると、集中力が切れ様々な実験ミスを
繰り返し、心因性の胃病になる。
学校を辞め、花巻に戻り嫌々、
家業を手伝うことになる。23歳の頃。

 その後、日蓮宗の猛烈な信者になる。
父親は、浄土真宗。
浄土宗は、念仏を唱え、死後に仏様の力で
極楽浄土に行かしてもらうというのが基本。
 一方の日蓮宗は、理想を他所に(死後に)
求めないで、信仰によって現実の世界を理想の
世界に変えるというのが基本。

父親との対抗は、信仰宗派の対立ともなる。
日蓮宗の特徴に、折伏という相手の従来の
価値観を論破し、新しい日蓮宗の価値観を
植え付けるという宗教活動があり、
父親に説教しまくる。

そして、25歳の1月23日に、
突然躁状態に入り家出をする。
上京し、日蓮宗の在家団体「国注会」の
旗頭田中智学の元に駆けつける。

午前中は、印刷所のアルバイト。
昼は、上野不忍池あたりでの街頭布教。
午後は国注会で奉仕活動。
夜は、原稿執筆。
この上京8ヶ月の間に、4百字原稿用紙で
3千枚を書いたと言われている。

この時期は、賢治曰く、原稿用紙に向かうと
マス目マス目に字がピョンピョンと躍り出して
「どうぞ早く書いてください」とお辞儀をしたという。

そして、父の作戦か、
妹のトシが病気になったと花巻に呼び戻される。
やがて妹が亡くなり、うつの時期となり詩作を中止。

その後、花巻の農学校の教師となるが、
29歳ぐらいにうつが再発。
教師を辞め、花巻の宮沢家別荘に移住し
自炊生活を始める。
うつ状態から、生活を切り替えた途端に躁状態に
入る。これが、賢治のスタイルのようで
6~7年周期でやってくる。

この躁状態時期は、農民運動を始める。
毎日、農作業。毎日、詩作。
肥料設計に力を入れ、農家の人にタダで指導をする。

「羅須地人協会」なるものを結成し、
毎週青年農家を集めて講義を実施。

そこで、しきりに言っていたことは、
「百姓はただ土を耕しているだけではなく、
 芸術家でなければいけない。
 同時に宗教家でも科学者でも
 なければいけない。
 一人の人間は少なくとも四つぐらいを
 兼ね備えていないと人間として
 楽しく一生を送れない。」
というもの。

 これは、賢治自身が、詩や童話を書く
人間であり、百姓であり、芸術家であり、
肥料を調合する科学者である多面体に
なろうとしていたのでは?

  このような活動が2年ほど続き、肺結核に
なり実家で療養生活をすることになる。
 この時期あたりから、長い作品も出てくる。
そして、躁状態の時に書いた作品に手を入れ
たり、文語詩というスタイルが始まる。
当時の不治の病に接した人としては、
非常に落ち着いた生活をしていた。

躁とうつが一緒になっている状態が
出てくるというのは天才の証拠。

 最後に、軽い躁がある。
一関の東北砕石工場に技師として就職し、
石灰肥料の改良や販売営業をする。
結核患者がこんな活動をするのは、
ほとんど自殺行為。
死に備えていたという姿勢を感じる。
やがて、東京神田に出てひっくり返り、
結局死を迎える。

<第一弾 終了>

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